山口県の久光氏2
周防国名田島村に久光与左衛門という地侍出身と思われる村役人が居たこととを前回紹介しました。
そして、同じ周防国出身であることから、久光善太と同族の可能性もあると考えられます。
この久光善太の『先祖附』によると、その系譜は、
久光佐渡 → 荒瀬角兵衛 → 久光善兵衛 → 久光助三 → 久光角平
→久光善兵衛 → 久光山三郎 → 久光八助 → 久光五郎左衛門
→久光三郎右衛門 → 久光善太
と続きます。
『熊本藩侍帳集成』には、善太の曾祖父である久光八助の家紋が記載されています。
丸に一文字。
もし名田島村の久光与左衛門の家紋を確認できて、似たような意匠であれば同族だろうと強く推定されます。どこかに資料が残っているといいのですが。
久光与左衛門についてこれ以上現時点では分かりませんが、これまでの資料に鑑み、山口県の久光氏の発祥の地は周防国(おそらく小松原荘久光名)と考えてよさそうです。
九州に存在する久光氏と同族なのか、はたまた別系統なのか、非常に興味が湧きます。
どうやったら調べられるのか…。
さて、その他の久光氏を探すと、『忠節事蹟26』に久光秀之進という人が記載されています。秀之進は幕末の人で、この文書は幕末維新期に功績があった人の列伝になります。
忠節事蹟によると「久光秀之進、姓多々良、名満房、第一砲隊兵士ナリ。文久三年癸亥十月馬関ニ屯成、元治元年甲子八月夷艦ト戦フ。北征ノ役是之日戦死、年二十二」とあります。
山口県で多々良姓を称したといえば、大内氏が有名です。秀之進は砲隊の一兵卒ですが、かつては大内氏と同族だったということでしょうか?
江戸時代の毛利家の分限帳に久光氏がほとんど見られないため、秀之進がどういういきさつで世に出てきたのか分かりませんし、多々良姓という記述をどう評価したらいいものやら私には分かりません。この久光秀之進も周防国出身なのかどうか、系譜がどうなのか等は全くもって不明であります。
2回にわたって山口県の久光氏を調べてきましたが、人口10万世帯あたり最大の世帯数を誇るわりに、記録が少ないなぁという印象でした。
まだ調べ切れていないことも多いと思いますので、ぼちぼち調べてみたいと思います。
山口県の久光氏
前々回述べた、人口10万世帯あたりの久光氏の数が全国最大であった山口県。
おととしの記事で紹介した久光善太の先祖・久光佐渡も周防国出身でした。
そもそも地名に久光があるのかと調べたところ、『角川日本地名大辞典』の小松原荘の記事で少し触れられていました。
すなわち、中世の周防国小松原荘の名(みょう)のひとつとして久光名があったということです。出典は「正中2年閏正月25日藤原直綱充行状」という文書だそうです。
正中2年=1325年、小松原荘のどこにあったかは不明。
久光善太の先祖、周防国出身の久光佐渡はこの地名を基に生じた一族だろうと推測されます。また、久光名に関する同様の記述は『荘園志料 下巻』にも記載があります。
さて、山口県で生じた久光一族の記録が何か他にないか当たったところ、『名田島村史』(能美宗一,1979)に久光氏の項目がありました。
「福楽寺文書によると、安永の頃に久光与左衛門といえる人が、三神社の宮都合心遣人として宮座頭人の佐分利城祐と共に同社のために尽くしたことが見受けられる。この人は向山の畔頭も務めたので、その永年の功によって久光の氏名を許されたようである。」と書かれています。
名田島村は、かつて周防国吉敷郡にあった村(現在は山口市)です。
三神社というのは、3つの神社という意味ではなく、そういう名前の神社で、現在も山口市名田島に鎮座されています。
宮都合心遣人というのは、この神社を資金面でサポートしたということでしょう。
『名田島史』によると「当時毛利藩の地方民政では永年の村役人勤務を表彰する方法として、苗字御免、帯刀御免に付て種々の分類階級が設けられてあった。庶民にて苗字を有することは、大抵この方法によったものである。」とあります。
村役人を勤める家というのは、帰農した地侍などその地域でそこそこ有力な家であることが多いようです。
たぶん、久光与左衛門の家もかつては周防国の地侍で、帰農して村役人を勤めていたのではないかと思われます。
もしかしたら熊本へ行った久光善太とも遠い親戚だったかもしれませんね。
北海道の久光氏
前回の投稿からの流れですので期待させるようなタイトルになっていますが、結論を先に述べると、北海道の久光氏を具体的にとらえることはできませんでした。
調べると言っても北海道はあまりに遠く、土地勘も歴史の知識も無いためプロの知恵を借りることに。
1 明治以降の移住者が多数を占める北海道でどうして全国2位の久光姓の多さになっているのか。
2 移住者が多いからこそ由緒書きなどの久光姓に関する資料はないだろうか。
この2点をメインに北海道立図書館にレファレンスを依頼したところ、「北海道で久光姓が多いということが明示された資料は探しあたりませんでした。」との衝撃回答。
これまで全国各地の図書館にたくさんのレファレンスを頼んできましたが、「不存在」的な回答を受けたのは初めてかもしれません。
余談ですが、これまでレファレンスを頼んでいちばん凄いと思ったのは大阪府立図書館です。膨大な資料に当たってくれたうえに当時の新聞を丹念に調べ、さらに大学等の外部サイトの資料まで調べていただきました。想像以上の回答結果に驚愕しましたが、それ以上に、レファレンス回答と同時に今回のレファレンスの満足度調査も送付されてきて、徹底して顧客満足度追及している図書館なんだなと驚いたものです。
話を戻します。
その回答の補足として『新北海道史第4巻通説』(北海道,1973)のp.455に「来住者府県別人口の順位」という記事があることは書かれていました。明治19年から大正10年まで5年刻みで都府県ランキングが載っているそうです。
内容に関する詳しい言及はありませんでしたが、「東北・北陸が多い」と書き添えてありました。
う~ん、「東北・北陸」ってめちゃ広いです。。。
今回のレファレンスは道立に依頼したため範囲が広すぎたのかもしれません。
道内でも特に久光姓が多い市町村を調べて、その地域の図書館に聞いてみた方がいいのかなと思っています。
全国各地から人が集まってきている北海道。
まとまった同姓研究というのは難しいのかもしれません。
道内久光氏の「元居た土地・由緒・家紋」等をひたすら収集する調査研究を、北海道の久光さんどなたか調べてくれないかなあ。情報求ム!
全国の久光姓の分布2
「住所でポン!2007」のデータによると、全国で久光姓が多い県の順位は、
1位 宮城県 104世帯
2位 北海道 67世帯
3位 山口県 65世帯
4位 福岡県 54世帯
5位 広島県 25世帯
6位 佐賀県 22世帯
・・・という順番になる、という投稿を以前しました。
ところで、世帯数を単純に並べると上記の順位になりますが、各県の世帯数はどうなのか?人数が多ければ久光姓大国と断言できるのか?ちょっと気になりました。
最新の令和2年国勢調査のデータ(令和2年国勢調査 人口等基本集計結果 結果の概要 (stat.go.jp))によると、
北海道 2,469,063世帯
宮城県 980,549世帯
山口県 597,309世帯
福岡県 2,318,479世帯
広島県 1,241,204世帯
佐賀県 311,173世帯
だそうです。かなりの世帯数の差があります。
久光姓世帯数を出した2007年と年は違いますが、これらの数字を使って人口10万世帯あたりの久光姓の世帯数を計算してみたいと思います。
(久光姓の世帯数÷国勢調査の世帯数)×10万 ※小数点第2位四捨五入
その結果が以下のとおり。
1位 山口県 10.9世帯
2位 宮城県 10.6世帯
3位 佐賀県 7.1世帯
4位 北海道 2.7世帯
5位 福岡県 2.3世帯
6位 広島県 2.0世帯
なんと、ぶっちぎりで世帯数1位だった宮城県が2位に下がり、人口10万世帯あたりでは山口県が1位に躍り出ました。
これら2県が「久光姓大国」と言えそうです。
また、こうして割合で見ると福岡県と広島県は大差ないことが分かります。
そして、北海道が意外に健闘していることが窺えます。
全国からの移民で成立している北海道が、それぞれの土地で久光姓を育んできたであろう福岡県や広島県よりも、若干ですが多い世帯割合とは想像しない結果となりました。
いったい北海道の久光さんたちはどこから集まってきたのか?興味は尽きません。
YOUは何しに茨城に?
便利な時代になりました。
「角川日本地名大辞典」と言えばその辺の市町村図書館クラスでは全国分を見ることはあまりなく、県立図書館クラスになってやっと全国分を閲覧することが出来るような大物でした。
データ量は多いのですが、索引を見ながら各県のものを持ってきて調べることなるので、なかなか手間のかかる作業でもあります。
そんな「角川日本地名大辞典」がネットで調べられる時代になりました。
「もう索引を使って名字の地は全て『本』で見たし」と思われるかもしれません。
このサイトの本当にすごいところはここからです。
じつはサイトの右上には検索の窓が用意されています。
『本』の場合、索引を使って調べると見出しで調べることしかできません。
ですが、ネット版だと全文検索できてしまうのです!
つまり、見出しにも無く、本文中にちらっと出てきただけの名字と同じ地名等がちゃんとヒットしてくるのです。
紙の本でこれを調べるのは、かなり困難ですね。
で、さっそく「久光」で調べてみると、31件もヒットしてきました。
ちなみに『本』の索引を使って調べると、以前投稿したように4件しか見つけることはできません。
下の名前が久光でヒットするのはあるあるですが、『後山村(広島県)に久光谷の久光城』があったり、『久満郷(島根県):石見国那賀郡周布郷のなかの一部 戦国時代には久光郷と書かれていた』などを感心しながら見ていくと、気になる記事があります。
現在の茨城県にかつてあった大形村の記事。
読み進めていくと『明治15年長崎県士族久光軍太が当地内77町歩の開墾に着手。』とあります。
この長崎県というのはくせ者で、実は現在の長崎県+佐賀県という広大な範囲です。
明治7年に起きた江藤新平によるいわゆる「佐賀の乱」の影響で、明治9年4月18日に佐賀県は三潴県に合併されてしまいます。
県が「お取り潰し」になった感じで江戸時代の遺風を感じます。
さらに、明治9年8月21日、三潴県のうち肥前国部分が長崎県に編入されます。
その後、佐賀県が独立(?)を成し遂げるのは明治16年5月9日。
つまり、久光軍太が開墾に着手した明治15年時点では「長崎県士族」というと、本当に長崎県の者かもしれないし、旧佐賀県の者かもしれないのです。
長崎県の者と仮定した場合、前回投稿したように、対馬本藩の士分であった久光氏の流れかもしれません。
旧佐賀県の者と考えると、どうしても田代領周辺の者ということになるため、士族というのは考えにくいところがあります。
この久光軍太については、現時点ではこれ以上分かっていませんので、詳細が分かり次第、投稿していきたいと思います。
それにしても、九州から何故わざわざ茨城県に行ったのでしょう?
九州でも開墾はできるでしょうし、蝦夷地に渡るわけでもなく茨城県。謎が多いです。
もしかしたら首都圏には今も久光軍太の子孫がいらっしゃるかもしれませんね。
対馬藩の久光氏
「田代領の久光氏」という記事で、現在の佐賀県鳥栖市東部にあった対馬藩の飛び地である田代領の久光氏について書きました。
現在もサロンパスで有名な久光製薬さんの本社があったりと久光姓にはご縁の深い土地です。
実はこれまで「田代領に久光氏は居るが、対馬本藩には久光氏は居ないのか?」という視点で考えたことがありませんでした。完全な思い込みですね。遠いですし。
しかしなんと、対馬本藩にも久光氏がいたことが判明しました。
「近世後期対馬藩の朝鮮通詞」(酒井雅代、2015)によると、江戸時代に唯一外交関係を結んだ国家が朝鮮であり、その外交の事前折衝を行っていたのが朝鮮通詞と言われる人たちでした。
通詞は単なる通訳官ではなく、町人身分でありながらも下級外交官というような立場であったようです。また、もともとは朝鮮貿易に関わることで語学力を身に着けた町人を藩が御用に利用したものであったとあります。
この朝鮮通詞に、久光市次郎という方がいたのです。
朝鮮通詞の役職は、五人通訳→稽古通詞→本通詞→大通詞と昇進していくのですが、寛政9年(1797年)に初めて五人通詞に久光市次郎の名前が登場します。
その後、文化2年(1805年)に五人通詞筆頭となり、翌文化3年(1806年)に稽古通詞に昇進します。
そしてなんと、文化5年(1808年)には本通詞を飛ばして一気に大通詞に抜擢されます。難しい交渉を順調に成し遂げた成果が評価されたようです。
その際に帯刀を認められています。すごいですね。
翌文化6年(1809年)、交渉の功績を称えられ御徒士(倅代まで二人扶持二石)となります。
さらに栄達は続きます。
文化7年(1810年)には永々御徒士(三人扶持三石)となります。
文化8年(1811年)永々俵取に。偉くはないですが立派な士分となりました。
しかし、残念ながらその時がやってきました。
文化8年10月、「御尋の品」で差し控えとなります。
なんのことでしょう?
酒井雅代『朝鮮信使易地聘礼交渉の頓挫と再開』(nikkan0000800010.pdf (hit-u.ac.jp))によると、人参や熊胆の潜商を行っていたことなどが原因で取り調べを受ける身となります。調子に乗ってしまったのでしょうか・・・。
悪いことは続きます。
文化10年(1813年)取り調べ中に病気となり、10月に入牢・士官召放となり完全に失脚して歴史の表舞台から姿を消します。
さて、この久光市次郎ですが、何者でしょうか?
現在の対馬に久光氏は居ないこと、朝鮮貿易で語学力を身に着けた町人を通詞に用いていたことを考えると、田代領(現佐賀県鳥栖市)の久光氏と関係があるのではないでしょうか。田代領の久光氏のなかには「うちの家系図に市次郎さんって人がいる」という方がいるやもしれません。
失脚してしまっているので、史料がこれ以上は無いかもですが、家紋や由緒書きなどがあれば、どこの久光氏から身を興したのか分かるかもしれませんね。
この久光市次郎について調べていたところ、さらに衝撃的なことに、対馬藩の「奉公帳」(他藩でいう分限帳・長崎県対馬歴史研究センター所蔵)には、久光市次郎を含めて5名の久光姓の者が見受けられるそうです(市兵衛、市蔵、梁左衛門、市次郎、善治)。全員田代領出身なのか、はたまた全く違う系統なのか気になります。
豊後国 久光氏
こちらの『「久光」という地名2』で、大分にも久光という地名があったことをご紹介しました。
本当に久光姓は居ないのだろうかと調べてみたところ・・・やはり居ました!
別府大学のサイトのようですが、掲載記事に「久光主計入道」とあります。
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc10805.pdf?file_id=6503
この論文で紹介されている着到帳は、高麗陣、いわゆる朝鮮出兵の際に大友勢として参加した侍たちの着到帳のようです。
大友直参に久光姓の方がいたことは、これまでの予想にないことでしたので驚きです。
このことをきっかけに、『大分縣史料(34)第二部補遺(6)』(大分県教育委員会編,1981)を見てみたところ、久光主計のほかにも数人の久光姓の方が。
「中庵発山口、経尼崎赴洛、而到常陸国水戸佐竹議宣領地、有従士著到此着到亦、有増減」とタイトルが打たれた文書にありました。
事情は分かりませんが、中庵つまり大友義統(吉統)が常陸の佐竹領へ行くときに従っていった方たちの名前が書いてあるようです。
久光主計入道(紹有)は、尼崎まで従って堺に残ったようです。
こちら久光三郎(統利)は、「以御供下向衆」として書かれていましたので、ひょっとしたら久光主計入道のように途中で待機せずに、常陸までついていったのかもしれません。
こちらは「於朝鮮國戦死併病死」と書かれた文書にありました。
朝鮮出兵のとき、久光半三郎さんは亡くなってしまったようですね。
現地に埋葬されたのでしょうか。
こちらはいつ作成されたものか不明ですが、「大友氏家臣交名」のなかに久光紹宇の名前があります。紹の字が共通ですので、久光主計入道紹有と親子関係がありそうです。
久光主計入道紹有といい、久光三郎統利といい、その名に「紹」や「統」が入っており、主家である大友家や重臣高橋家などとの関係が見え隠れします。
はたして中世別府の久光名発祥なのかどうかも含めて、今後も調査が必要です。
さて、このようにみてきた久光一族ですが、大友氏の豊後徐国後はどこに行ったのでしょうか?
仮説1 大分で帰農した。現在久光姓があまり居ないので可能性低い?
仮説2 大友氏に従った。
※関ヶ原後に大友義乗異母弟松野正照に従い肥後加藤家へ行った者、
高家となった大友家に従った者がいる可能性。
案外、江戸時代から代々関東に住んでいるという久光姓の方も、戦国時代には九州にいたという方が結構いらっしゃるかもしれませんね。