筑前国 久光氏
以前、肥前国(鳥栖)と筑後国(小郡)の久光氏について書きました。
今回は筑前国(筑紫野)の久光氏のお話です。
まずは位置関係。
そして、これら両国の北にあるのが筑前国。
三国が接しているので三国境と呼ばれ、いまも国境石が残されています。
その筑前国。原田村にも久光氏がいました。
これら三国境の地域はもともと筑紫氏の支配地域でしたから、久光氏が居てもおかしくない気がします。
筑後国久光氏の記事で書きましたように、天正14年の島津氏侵攻によって肥前と筑後で帰農したと思われる久光氏。
ですが、原田村に関しては、戦国末期ではなく江戸時代に移り住んできた可能性が高いようです。
原田村に埋葬された記録が残っている最古の久光氏は、1783年に亡くなっています。
134年間で埋葬者数24人。
1世代を30年前後と考えると134年は4~5世代。
1世代の1家族=5~6人程度と考えると、だいたい計算が合います。
つまり、この久光氏は複数の家ではなく、1つの家である可能性が高いのではと思われます。
以前紹介した下の記事。
永吉南村庄屋の久光氏が失脚したのが元禄16年=1703年です。
原田村で最初に久光氏の埋葬が記録されたのが1783年。
永吉南村庄屋久光氏の失脚の80年後です。
いくつで亡くなったか分かりませんので何とも言えない部分はありますけれど、亡くなったのが1783年なら移住してきたのは、その30~50年くらい前でしょうか?
1733~1753年頃にどこからともなく原田村にやってきた様子の久光氏。
失脚した永吉南村庄屋久光氏の一族は財産を失い、そのほとんどが田代に移り住んで町人になったと思っていますが、なかには農家としての再起を期して原田村に移り住んできた方もいたのではないかと思いますがどうでしょう?
(もちろん、永吉南村とは無関係で別な所から移住してきた可能性もあります)
ところで、家が絶えたのかそれとも転居されたのか、現在ではこの24名のお墓は無縁仏化しているらしいです。
当主の方に原田村久光氏の由緒を確認し、この仮説の検証が出来ないのが実にもどかしくもあり残念でもあります。
角屋 久光商店3
高祖父・久光茂平が興し、曾祖父・久光伊之助が発展させた角屋久光商店。
どのくらいの稼ぎがあったのでしょうか?
当時の商工録から記録を拾ってみました。
データが少ないですが、大正末から昭和初めが最も稼ぎが良かった時代のようです。
このサイトの「2.給料・賃金」の大正14年を見ると、
勤労者世帯実収入(月)(2人以上勤労)114円
大卒初任給 50円
大工手間賃(1日) 3.5円
日雇い労働者賃金(1日) 2.1円
となっています。
これらの金額は、1円=4500円程度で換算してみると令和のものと近い金額になるようです。
・50円×4500=225,000円 大卒初任給
・2.1円×4500=9,450円 日雇い労働者賃金(1日)
そこで、仮に1円=4500円の価値とすると、
昭和三年・77円=令和二年・346,500円くらいの納税額というところでしょうか?
価値の換算は容易ではありませんが、
こうやって推察してみると、「金持ちでは無いが家族で食っていく分には当面困っていない」という生活状況が見えるように感じます。
さて、角屋久光商店の経営状態が上記のような感じであった時代。
それを記念し大正7年に建立された石碑が残っていました。
曾祖父・久光伊之助が寄付した金額は3円。
1円=4500円仮説で換算すると、現代価値で13,500円くらい。
その寄付額が高いのか安いのかは、分かりません。
ただ、石碑に刻まれた名前をひ孫が見つけて大喜びしている姿は、流石の曾祖父も想像だにしなかっただろうことは、容易に分かります。
こういう体験をすると、自分の孫やひ孫へのサプライズとして、石碑建立に寄付をしたい気持ちになってきますね。いつの日か見つけてもらえる願いを秘めて・・。
角屋 久光商店2
前回の続き。
明治時代から鳥栖駅で牛乳を販売していた曾祖父。
当時の牛乳瓶が残っていないか探してみました。
割れ物だけに難しいかな・・・と思いましたが、残っていました!
現代の牛乳瓶に比べてガラスが薄く、よくぞ割れずに残っていたものです。
内容量は一合五勺(約270ml)。今の200mlの牛乳瓶より多いんですね。
色は透明で、飲み口が現代のものに比べて細くジュース瓶のような形状です。
牛乳瓶の変遷を調べてみると、明治初期はブリキ缶を担いで量り売りしていたようです。腐らないのか心配になります。
その後、明治22年に牛乳搾取規則が制定されガラス瓶に入れて販売することが義務付けられました。やっぱり不衛生だったんですね。
ちなみに、当初の牛乳瓶は有色瓶が使われることも多く、青や緑の牛乳瓶もあったそうです。
時は流れ、やがて昭和3年。透明瓶の使用が義務付けられました。
とは言え、昭和10年代になると物資の不足から、実際には有色瓶が再び使用されていたようです。
さて、今回の牛乳瓶。
透明で細口です。この形状から推察すると昭和3年から昭和10年ごろに使われていたものでは無いかと思われます。
少なくとも物資不足により有色瓶の使用を強いられた時代よりは前だと思われます。
この時代に鳥栖駅構内で牛乳を販売していたのは、角屋久光商店だけですから、写真の牛乳瓶は御先祖様が販売した瓶だと考えられます。
そう思いながら眺めてみると、ただの牛乳瓶にも懐かしさのような親しみを感じてきます。
角屋 久光商店
長らく戦国時代の久光氏について記述してきました。
今回は一気に現代に近づき、私の高祖父・曾祖父について書きます。
高祖父・久光茂平 嘉永5年12月24日~明治38年6月10日
曾祖父が営業していた角屋(久光商店)です。
創業は明治30年とありますから、高祖父の時代に創業し、曾祖父が発展させたようです。
高祖父は明治38年に亡くなっていますから、このような記事で高祖父の名前が掲載されたものは発見に至っていません。九州の個人商店に関して明治時代のものはあまり残っておらず、資料を探すのは大変です。
さて、営業内容ですが、「陶器、荒物、牛乳」とあります。
陶器・荒物はともかく、牛乳とは目を引きます。
明治時代の九州といえば、現代とは比べ物にならないほど東京との格差が激しかったと思います。ひとことでいえば”イナカ”だったはずです。
そんな時代に九州で牛乳販売?なんだか唐突な感じを受けます。
一体いつ頃から牛乳を売っていたのか、というのが気になるところですが、
明治44年の「駅勢一覧」には鳥栖駅構内牛乳呼売人として曾祖父の名前がしっかり書かれていました。
どこの時点で始めたのかは判然としませんが、少なくとも明治時代には牛乳を売り始めていたようです。ハイカラな話ですね。
それにしましても、国鉄駅構内で営業を許されていたことは驚きです。
現代のように入札で業者を決める時代ではありません。どうやって入ったのでしょう。
根拠となる資料が無いため仮説と呼べるか分かりませんが、ひとつには地元の有力者・八坂甚八氏との関係が考えられます。
地元では有名な話ですが、いち早く鉄道の有用性に気づき鳥栖に鉄道駅を誘致したことで八坂甚八氏は知られています。
しかも大地主で国会議員も務めた、地元の名士中の名士です。
ここで最初に掲載しました「大日本商工録 公認. 昭和3年版」の取引銀行を改めてみますと、「八坂銀行」となっています。
完全に憶測というか妄想になりますが、、、
・地元に鉄道を引いた八坂氏。
・駅弁に関しては、地元の橋本氏が「八坂+橋本」で”八ツ橋屋”という弁当屋さんを開いて構内営業してもらうことができた(これは本当)。
・あとは、東京の駅には「ミルクスタンド」があるのに、わが地元には無いことを残念に思っている。
・さて、角屋の経営のため八坂銀行に出入りしていた久光氏。たまたま八坂甚八氏の目にとまり「君、駅で牛乳売ってみらんかね?」
・こうして角屋(久光商店)は陶器・荒物に加えて牛乳販売も手掛けることになったのであった。
・・・というストーリーが一番しっくりくる気がしています。憶測とはいえ大外れとも言えないのではないかと思います。
でもなければ、一般庶民の商売人がそう簡単に国鉄構内に営業に入れるとは思えないのです。
この仮説(?)の真偽を確かめるために、九州鉄道構内営業関係や八坂家文書を見つけたいです。ほんの少しでも当時の背景が確認できたら嬉しいです。
筑後国 久光氏
前回は肥前国で帰農し永吉南村庄屋を務めていた久光氏について書きました。
まず位置関係について。肥前国の東端が現在の佐賀県鳥栖市付近です。
永吉南村庄屋の久光氏が居たのはそのあたりになります。
これら両国の国境地域は、天正14年島津氏に侵攻されるまで筑紫氏の勢力圏だった場所です。
今回は、筑後国の西端、現在の福岡県小郡市付近に見られる久光氏について書きます。
最初に結論から言うと、肥前国の久光氏と筑後国の久光氏は同族であると考えられます。
小郡市郷土史研究会誌「故郷の花」のなかで、島津氏の筑後侵攻に関して田中一郎氏は「この戦により筑後にあった城郭・神社・仏閣・村々は焼き払われ、無人の荒野となった」と表現されています。
そして、「この無人で肥沃な高生産地帯に全く新たな武士団や農民が強制的に又は縁故を頼って移住してきた」と書いています。
その移住して来た家というのが、写真にあるように久光家であり田中家であり池内家その他であると述べられています。
久光家の部分に注目すると、「筑紫一族 天正十五年頃」とあります。
天正15年は、島津氏が筑後に侵攻してきた翌年で、豊臣秀吉により九州が平定された頃。
まさに筑紫氏が代々の領地を失った時代です。
主家筑紫氏の没落によって帰農した久光一族の中から、前回紹介した永吉南村庄屋・久光氏のように肥前国で帰農した一団と、筑後国へ移住した一団があったことが推察されます。
その約260年間で両国の久光氏の交流は途絶えたものと思います。
現在でも福岡県と佐賀県とに分かれているため全く別の集団に見えますが、以上のようなことから約430年前は同族だったのだろうと思われます。
気になるところは、田中家や池内家はそれぞれ龍造寺に属す、加藤家に属すと書かれているのに、久光家だけ筑紫一族。「筑紫一族」とは何でしょうか?
最初に思い浮かぶのは、筑紫氏の一門衆なのか?ということです。
「城数之覚」には久光氏の名前はありません。一門衆だったらお城のひとつくらい任されてて良さそうなものです。
この「筑紫一族」というのは、筑紫氏の支配を支えてきた地侍という意味で一族(一党)なのかと勝手に推測していますが、どうでしょうか。
「故郷の花」の出典である「久光家家譜」の現物を確認したいのですが、未だ所有者に辿りつけていません。
永吉南村庄屋
肥前国で帰農した久光氏の話です。
松尾禎作「郷土田代を語る」によると、基肄郡永吉南村では初代から4代目までの
庄屋を久光氏が勤めています。
初代 久光文右エ門(別の資料では「又右衛門」)
二代 久光源右エ門
三代 久光惣右エ門
四代 久光又右エ門のち惣右エ門と改名
しかし、四代目久光惣右エ門のとき、元禄16年(1703年)に対馬藩田代領で大事件が起きます。
借銀帳訴訟、畠ケ田之詮議、七月十日に相済。大庄屋三人役儀被召放、棟梁三郎右衛城戸村へ流罪、八郎右衛門畠ケ田之罪柚比村へ流罪、小庄屋永吉南村久光惣右衛門、蔵上村権藤四郎兵衛、宿村青木甚右衛門、藤木村長谷仁左衛門、同西村原孫市、真木村高野治兵衛、役儀召放。養父郡下代吉田益右衛門被召放、御暇申候而筑前へ立越ス。宿村百姓森利左衛門飯田村へ、牢人青木甚右衛門は牢人先ニ而閉門、七月騒動ト云。右科人之内、七郎兵衛、三郎右衛門は借銀帳訴訟、残九人は畠ケ田之訳、此内利左衛門ハ牢人迄、残ハ身体破滅ス。右ニ付、大庄屋は最前之仮役三人給。
(出典:基肄養父御領中略記)
借銀帳訴訟、畠ケ田之訳、という理由で大庄屋3人、小庄屋9人が処罰されたようです。
具体的にどんな犯罪だったのか分かりませんが、隠し田でもあったのかと思っています。
さて、この処罰されたメンバーのなかに、残念ながら四代目久光惣右衛門がいます。
庄屋として役儀召放。つまり庄屋をクビになっています。
さらに読み進めると「身体破滅ス」と恐ろしい言葉が続いています。
地侍として地元の有力者であり、江戸時代になって庄屋になったと思われる久光氏。
きっと豪農だったのでしょうけれど、この事件で全財産を失ったようです。
現在、佐賀県鳥栖市に古くからある久光氏はみな町方にあり、農村にはみられません。
おそらくこの元禄16年の事件で田畑を全て失ったため町方に移住し、町人として再出発をしたためではないかと思います。
もちろん「身体破滅ス」とは言え、無一文では移住もできませんし、そもそも食べていけませんから、庄屋時代の縁戚関係からの援助があったものと思われます。
苦しいときに久光一族を援助してくださった方々に感謝です。
肥前国 久光氏4
久光善内について長々と書いてきました。
子孫かもしれない久光正喜氏。熊本市内を探せば子孫の方に行き当たるかとおもいきや。
なんとこの久光正喜氏、明治22年7月に屯田兵として北海道に渡っていました。
http://consulparty.in.coocan.jp/tondenhei.pdf
篠路兵村というところに入ったようです。
現在は札幌市北区屯田というらしいですが、住所でポン!によるとなんと1名だけ久光姓の方がいることが判明。久光正喜氏のご子孫である可能性が高いです。
さっそく手紙をお送りしてみましたが、「宛名に行き当たらず」と戻ってきてしまいました・・・。転居なさってしまったようです。
こうなると、素人にはこれ以上お探しするのは困難です。
戦国時代に島津氏と戦い敗れながらも豊臣大名として復活し、その後の関ヶ原で西軍について改易と波乱にとんだ筑紫氏。
その主家と運命を共にして肥後まで行った久光善内。
もしかしたら、その子孫かもしれない久光正喜氏は北海道まで渡っていきました。
本当にご子孫でしたら、善内のDNAは本当に遠くまで行かれたものです。
嗚呼、それにしても、久光善内のご子孫だったのか、肥前国時代の言い伝えや久光氏の出自、家系図について腹の底から聞いてみたかったと残念でなりません。
4回にわたって書いてきた久光善内については、ひとまずここまでですが、私が生きているうちに何か情報が入ってくることを祈るような気持ちでいっぱいです。