ご先祖様の足跡を求めて

ご先祖様の記録を追うとともに全国に点在する同姓の発祥を考えます

筑前国 久光氏2

前回と同じ筑前国でも、今回はお侍の話です。

 

福岡藩の分限帳は73点が確認されているそうですが、活字になって世に出ているのは25点分だけ、わずか1/3しか知られていません。

その活字になった分限帳を見ていますと、

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福岡地方史研究会編『福岡藩分限帳集成』海鳥社,1999,p.661

久光彦六さんと言う方がおられます。

右肩に元万代琢磨と書かれており、氏名が変わったことが分かります。

万代家と久光家との詳細な関係は分かりませんが、両家の関係性はこれだけではありません。

 

福岡の変 - Wikipedia

福岡の変を指揮したひとりに久光忍太郎という方がいます。

『明治丁丑 福岡表警聞懐旧談』(清漣野生 ,1973)によると、

 福岡県筑前国那珂郡平尾村居住 同県士族 久光忍太郎

とあります。

実は、この久光忍太郎。出身は万代家なのです。

『西南記伝 下巻2』(黒龍会,1911)によると、万代彦右衛門の第三子。

万代家を継いだ長兄・万代十兵衛は禄高100石のれっきとした侍。

しかしながらこの万代十兵衛は、乙丑の獄で切腹になってしまいます。

乙丑の獄 - Wikipedia

 

その兄の後を継いだのが、三男・忍太郎でした(次男は江上家に養子に出ています)。

不思議なのですが、家を継いだ際に姓を久光と改め、ここに久光忍太郎となりました。

 

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原田久『幕末・維新と筑前福岡藩』1999

最初に紹介した久光彦六も、元は万代琢磨でした。

また、万代彦右衛門と久光彦六という名前。

偶然かもしれませんが「彦」にこだわっている感じがありますね。

それにしても、どうして万代から久光になる人がこうもいるのでしょうか?

 

万代家にしても久光家にしても、黒田家に仕える侍である以上、家を絶やさずにつなげていくことも大切な奉公です。

そう考えると、両家の間には何らかの強い関係があったとしか思えません。

お互いに家が絶えないよう協力し合っていたのでしょうか。

分限帳・久光彦六のところには長政の代からとあります。

長政に最初に召し抱えられた久光氏がどういう謂れだったのか、ぜひとも知りたいものです(いちばん気になるのは、もちろん筑紫家臣の久光氏との関係性の有無ですが)。

そして、万代家と久光家の関係も明らかにしていきたいです。