豊後国 久光氏
こちらの『「久光」という地名2』で、大分にも久光という地名があったことをご紹介しました。
本当に久光姓は居ないのだろうかと調べてみたところ・・・やはり居ました!
別府大学のサイトのようですが、掲載記事に「久光主計入道」とあります。
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc10805.pdf?file_id=6503
この論文で紹介されている着到帳は、高麗陣、いわゆる朝鮮出兵の際に大友勢として参加した侍たちの着到帳のようです。
大友直参に久光姓の方がいたことは、これまでの予想にないことでしたので驚きです。
このことをきっかけに、『大分縣史料(34)第二部補遺(6)』(大分県教育委員会編,1981)を見てみたところ、久光主計のほかにも数人の久光姓の方が。
「中庵発山口、経尼崎赴洛、而到常陸国水戸佐竹議宣領地、有従士著到此着到亦、有増減」とタイトルが打たれた文書にありました。
事情は分かりませんが、中庵つまり大友義統(吉統)が常陸の佐竹領へ行くときに従っていった方たちの名前が書いてあるようです。
久光主計入道(紹有)は、尼崎まで従って堺に残ったようです。
こちら久光三郎(統利)は、「以御供下向衆」として書かれていましたので、ひょっとしたら久光主計入道のように途中で待機せずに、常陸までついていったのかもしれません。
こちらは「於朝鮮國戦死併病死」と書かれた文書にありました。
朝鮮出兵のとき、久光半三郎さんは亡くなってしまったようですね。
現地に埋葬されたのでしょうか。
こちらはいつ作成されたものか不明ですが、「大友氏家臣交名」のなかに久光紹宇の名前があります。紹の字が共通ですので、久光主計入道紹有と親子関係がありそうです。
久光主計入道紹有といい、久光三郎統利といい、その名に「紹」や「統」が入っており、主家である大友家や重臣高橋家などとの関係が見え隠れします。
はたして中世別府の久光名発祥なのかどうかも含めて、今後も調査が必要です。
さて、このようにみてきた久光一族ですが、大友氏の豊後徐国後はどこに行ったのでしょうか?
仮説1 大分で帰農した。現在久光姓があまり居ないので可能性低い?
仮説2 大友氏に従った。
※関ヶ原後に大友義乗異母弟松野正照に従い肥後加藤家へ行った者、
高家となった大友家に従った者がいる可能性。
案外、江戸時代から代々関東に住んでいるという久光姓の方も、戦国時代には九州にいたという方が結構いらっしゃるかもしれませんね。