対馬藩の久光氏
「田代領の久光氏」という記事で、現在の佐賀県鳥栖市東部にあった対馬藩の飛び地である田代領の久光氏について書きました。
現在もサロンパスで有名な久光製薬さんの本社があったりと久光姓にはご縁の深い土地です。
実はこれまで「田代領に久光氏は居るが、対馬本藩には久光氏は居ないのか?」という視点で考えたことがありませんでした。完全な思い込みですね。遠いですし。
しかしなんと、対馬本藩にも久光氏がいたことが判明しました。
「近世後期対馬藩の朝鮮通詞」(酒井雅代、2015)によると、江戸時代に唯一外交関係を結んだ国家が朝鮮であり、その外交の事前折衝を行っていたのが朝鮮通詞と言われる人たちでした。
通詞は単なる通訳官ではなく、町人身分でありながらも下級外交官というような立場であったようです。また、もともとは朝鮮貿易に関わることで語学力を身に着けた町人を藩が御用に利用したものであったとあります。
この朝鮮通詞に、久光市次郎という方がいたのです。
朝鮮通詞の役職は、五人通訳→稽古通詞→本通詞→大通詞と昇進していくのですが、寛政9年(1797年)に初めて五人通詞に久光市次郎の名前が登場します。
その後、文化2年(1805年)に五人通詞筆頭となり、翌文化3年(1806年)に稽古通詞に昇進します。
そしてなんと、文化5年(1808年)には本通詞を飛ばして一気に大通詞に抜擢されます。難しい交渉を順調に成し遂げた成果が評価されたようです。
その際に帯刀を認められています。すごいですね。
翌文化6年(1809年)、交渉の功績を称えられ御徒士(倅代まで二人扶持二石)となります。
さらに栄達は続きます。
文化7年(1810年)には永々御徒士(三人扶持三石)となります。
文化8年(1811年)永々俵取に。偉くはないですが立派な士分となりました。
しかし、残念ながらその時がやってきました。
文化8年10月、「御尋の品」で差し控えとなります。
なんのことでしょう?
酒井雅代『朝鮮信使易地聘礼交渉の頓挫と再開』(nikkan0000800010.pdf (hit-u.ac.jp))によると、人参や熊胆の潜商を行っていたことなどが原因で取り調べを受ける身となります。調子に乗ってしまったのでしょうか・・・。
悪いことは続きます。
文化10年(1813年)取り調べ中に病気となり、10月に入牢・士官召放となり完全に失脚して歴史の表舞台から姿を消します。
さて、この久光市次郎ですが、何者でしょうか?
現在の対馬に久光氏は居ないこと、朝鮮貿易で語学力を身に着けた町人を通詞に用いていたことを考えると、田代領(現佐賀県鳥栖市)の久光氏と関係があるのではないでしょうか。田代領の久光氏のなかには「うちの家系図に市次郎さんって人がいる」という方がいるやもしれません。
失脚してしまっているので、史料がこれ以上は無いかもですが、家紋や由緒書きなどがあれば、どこの久光氏から身を興したのか分かるかもしれませんね。
この久光市次郎について調べていたところ、さらに衝撃的なことに、対馬藩の「奉公帳」(他藩でいう分限帳・長崎県対馬歴史研究センター所蔵)には、久光市次郎を含めて5名の久光姓の者が見受けられるそうです(市兵衛、市蔵、梁左衛門、市次郎、善治)。全員田代領出身なのか、はたまた全く違う系統なのか気になります。