YOUは何しに茨城に?
便利な時代になりました。
「角川日本地名大辞典」と言えばその辺の市町村図書館クラスでは全国分を見ることはあまりなく、県立図書館クラスになってやっと全国分を閲覧することが出来るような大物でした。
データ量は多いのですが、索引を見ながら各県のものを持ってきて調べることなるので、なかなか手間のかかる作業でもあります。
そんな「角川日本地名大辞典」がネットで調べられる時代になりました。
「もう索引を使って名字の地は全て『本』で見たし」と思われるかもしれません。
このサイトの本当にすごいところはここからです。
じつはサイトの右上には検索の窓が用意されています。
『本』の場合、索引を使って調べると見出しで調べることしかできません。
ですが、ネット版だと全文検索できてしまうのです!
つまり、見出しにも無く、本文中にちらっと出てきただけの名字と同じ地名等がちゃんとヒットしてくるのです。
紙の本でこれを調べるのは、かなり困難ですね。
で、さっそく「久光」で調べてみると、31件もヒットしてきました。
ちなみに『本』の索引を使って調べると、以前投稿したように4件しか見つけることはできません。
下の名前が久光でヒットするのはあるあるですが、『後山村(広島県)に久光谷の久光城』があったり、『久満郷(島根県):石見国那賀郡周布郷のなかの一部 戦国時代には久光郷と書かれていた』などを感心しながら見ていくと、気になる記事があります。
現在の茨城県にかつてあった大形村の記事。
読み進めていくと『明治15年長崎県士族久光軍太が当地内77町歩の開墾に着手。』とあります。
この長崎県というのはくせ者で、実は現在の長崎県+佐賀県という広大な範囲です。
明治7年に起きた江藤新平によるいわゆる「佐賀の乱」の影響で、明治9年4月18日に佐賀県は三潴県に合併されてしまいます。
県が「お取り潰し」になった感じで江戸時代の遺風を感じます。
さらに、明治9年8月21日、三潴県のうち肥前国部分が長崎県に編入されます。
その後、佐賀県が独立(?)を成し遂げるのは明治16年5月9日。
つまり、久光軍太が開墾に着手した明治15年時点では「長崎県士族」というと、本当に長崎県の者かもしれないし、旧佐賀県の者かもしれないのです。
長崎県の者と仮定した場合、前回投稿したように、対馬本藩の士分であった久光氏の流れかもしれません。
旧佐賀県の者と考えると、どうしても田代領周辺の者ということになるため、士族というのは考えにくいところがあります。
この久光軍太については、現時点ではこれ以上分かっていませんので、詳細が分かり次第、投稿していきたいと思います。
それにしても、九州から何故わざわざ茨城県に行ったのでしょう?
九州でも開墾はできるでしょうし、蝦夷地に渡るわけでもなく茨城県。謎が多いです。
もしかしたら首都圏には今も久光軍太の子孫がいらっしゃるかもしれませんね。