山口県の久光氏
前々回述べた、人口10万世帯あたりの久光氏の数が全国最大であった山口県。
おととしの記事で紹介した久光善太の先祖・久光佐渡も周防国出身でした。
そもそも地名に久光があるのかと調べたところ、『角川日本地名大辞典』の小松原荘の記事で少し触れられていました。
すなわち、中世の周防国小松原荘の名(みょう)のひとつとして久光名があったということです。出典は「正中2年閏正月25日藤原直綱充行状」という文書だそうです。
正中2年=1325年、小松原荘のどこにあったかは不明。
久光善太の先祖、周防国出身の久光佐渡はこの地名を基に生じた一族だろうと推測されます。また、久光名に関する同様の記述は『荘園志料 下巻』にも記載があります。
さて、山口県で生じた久光一族の記録が何か他にないか当たったところ、『名田島村史』(能美宗一,1979)に久光氏の項目がありました。
「福楽寺文書によると、安永の頃に久光与左衛門といえる人が、三神社の宮都合心遣人として宮座頭人の佐分利城祐と共に同社のために尽くしたことが見受けられる。この人は向山の畔頭も務めたので、その永年の功によって久光の氏名を許されたようである。」と書かれています。
名田島村は、かつて周防国吉敷郡にあった村(現在は山口市)です。
三神社というのは、3つの神社という意味ではなく、そういう名前の神社で、現在も山口市名田島に鎮座されています。
宮都合心遣人というのは、この神社を資金面でサポートしたということでしょう。
『名田島史』によると「当時毛利藩の地方民政では永年の村役人勤務を表彰する方法として、苗字御免、帯刀御免に付て種々の分類階級が設けられてあった。庶民にて苗字を有することは、大抵この方法によったものである。」とあります。
村役人を勤める家というのは、帰農した地侍などその地域でそこそこ有力な家であることが多いようです。
たぶん、久光与左衛門の家もかつては周防国の地侍で、帰農して村役人を勤めていたのではないかと思われます。
もしかしたら熊本へ行った久光善太とも遠い親戚だったかもしれませんね。