ご先祖様の足跡を求めて

ご先祖様の記録を追うとともに全国に点在する同姓の発祥を考えます

全国の久光姓の分布2

「住所でポン!2007」のデータによると、全国で久光姓が多い県の順位は、

1位 宮城県 104世帯

2位 北海道  67世帯

3位 山口県  65世帯

4位 福岡県  54世帯

5位 広島県  25世帯

6位 佐賀県  22世帯

・・・という順番になる、という投稿を以前しました。

kadoyasan.hatenablog.jp

ところで、世帯数を単純に並べると上記の順位になりますが、各県の世帯数はどうなのか?人数が多ければ久光姓大国と断言できるのか?ちょっと気になりました。

最新の令和2年国勢調査のデータ(令和2年国勢調査 人口等基本集計結果 結果の概要 (stat.go.jp))によると、

北海道   2,469,063世帯
宮城県      980,549世帯
山口県      597,309世帯
福岡県   2,318,479世帯
広島県   1,241,204世帯
佐賀県      311,173世帯

だそうです。かなりの世帯数の差があります。

久光姓世帯数を出した2007年と年は違いますが、これらの数字を使って人口10万世帯あたりの久光姓の世帯数を計算してみたいと思います。

(久光姓の世帯数÷国勢調査の世帯数)×10万 ※小数点第2位四捨五入

その結果が以下のとおり。

1位 山口県 10.9世帯

2位 宮城県 10.6世帯

3位 佐賀県  7.1世帯

4位 北海道  2.7世帯

5位 福岡県  2.3世帯

6位 広島県  2.0世帯

なんと、ぶっちぎりで世帯数1位だった宮城県が2位に下がり、人口10万世帯あたりでは山口県が1位に躍り出ました。

これら2県が「久光姓大国」と言えそうです。

また、こうして割合で見ると福岡県と広島県は大差ないことが分かります。

そして、北海道が意外に健闘していることが窺えます。

全国からの移民で成立している北海道が、それぞれの土地で久光姓を育んできたであろう福岡県や広島県よりも、若干ですが多い世帯割合とは想像しない結果となりました。

いったい北海道の久光さんたちはどこから集まってきたのか?興味は尽きません。

YOUは何しに茨城に?

便利な時代になりました。

角川日本地名大辞典」と言えばその辺の市町村図書館クラスでは全国分を見ることはあまりなく、県立図書館クラスになってやっと全国分を閲覧することが出来るような大物でした。

データ量は多いのですが、索引を見ながら各県のものを持ってきて調べることなるので、なかなか手間のかかる作業でもあります。

そんな「角川日本地名大辞典」がネットで調べられる時代になりました。

個別ページ (jlogos.com)

 

「もう索引を使って名字の地は全て『本』で見たし」と思われるかもしれません。

このサイトの本当にすごいところはここからです。

じつはサイトの右上には検索の窓が用意されています。

『本』の場合、索引を使って調べると見出しで調べることしかできません。

ですが、ネット版だと全文検索できてしまうのです!

つまり、見出しにも無く、本文中にちらっと出てきただけの名字と同じ地名等がちゃんとヒットしてくるのです。

紙の本でこれを調べるのは、かなり困難ですね。

 

で、さっそく「久光」で調べてみると、31件もヒットしてきました。

ちなみに『本』の索引を使って調べると、以前投稿したように4件しか見つけることはできません。

kadoyasan.hatenablog.jp

下の名前が久光でヒットするのはあるあるですが、『後山村(広島県)に久光谷の久光城』があったり、『久満郷(島根県):石見国那賀郡周布郷のなかの一部 戦国時代には久光郷と書かれていた』などを感心しながら見ていくと、気になる記事があります。

 

現在の茨城県にかつてあった大形村の記事。

読み進めていくと『明治15年長崎県士族久光軍太が当地内77町歩の開墾に着手。』とあります。

この長崎県というのはくせ者で、実は現在の長崎県佐賀県という広大な範囲です。

明治7年に起きた江藤新平によるいわゆる「佐賀の乱」の影響で、明治9年4月18日に佐賀県は三潴県に合併されてしまいます。

県が「お取り潰し」になった感じで江戸時代の遺風を感じます。

さらに、明治9年8月21日、三潴県のうち肥前国部分が長崎県編入されます。

その後、佐賀県が独立(?)を成し遂げるのは明治16年5月9日。

つまり、久光軍太が開墾に着手した明治15年時点では「長崎県士族」というと、本当に長崎県の者かもしれないし、旧佐賀県の者かもしれないのです。

 

長崎県の者と仮定した場合、前回投稿したように、対馬本藩の士分であった久光氏の流れかもしれません。

佐賀県の者と考えると、どうしても田代領周辺の者ということになるため、士族というのは考えにくいところがあります。

この久光軍太については、現時点ではこれ以上分かっていませんので、詳細が分かり次第、投稿していきたいと思います。

それにしても、九州から何故わざわざ茨城県に行ったのでしょう?

九州でも開墾はできるでしょうし、蝦夷地に渡るわけでもなく茨城県。謎が多いです。

もしかしたら首都圏には今も久光軍太の子孫がいらっしゃるかもしれませんね。

対馬藩の久光氏

「田代領の久光氏」という記事で、現在の佐賀県鳥栖市東部にあった対馬藩の飛び地である田代領の久光氏について書きました。

kadoyasan.hatenablog.jp

現在もサロンパスで有名な久光製薬さんの本社があったりと久光姓にはご縁の深い土地です。

実はこれまで「田代領に久光氏は居るが、対馬本藩には久光氏は居ないのか?」という視点で考えたことがありませんでした。完全な思い込みですね。遠いですし。

しかしなんと、対馬本藩にも久光氏がいたことが判明しました。

 

「近世後期対馬藩の朝鮮通詞」(酒井雅代、2015)によると、江戸時代に唯一外交関係を結んだ国家が朝鮮であり、その外交の事前折衝を行っていたのが朝鮮通詞と言われる人たちでした。

通詞は単なる通訳官ではなく、町人身分でありながらも下級外交官というような立場であったようです。また、もともとは朝鮮貿易に関わることで語学力を身に着けた町人を藩が御用に利用したものであったとあります。

この朝鮮通詞に、久光市次郎という方がいたのです。

 

朝鮮通詞の役職は、五人通訳→稽古通詞→本通詞→大通詞と昇進していくのですが、寛政9年(1797年)に初めて五人通詞に久光市次郎の名前が登場します。

その後、文化2年(1805年)に五人通詞筆頭となり、翌文化3年(1806年)に稽古通詞に昇進します。

そしてなんと、文化5年(1808年)には本通詞を飛ばして一気に大通詞に抜擢されます。難しい交渉を順調に成し遂げた成果が評価されたようです。

その際に帯刀を認められています。すごいですね。

翌文化6年(1809年)、交渉の功績を称えられ御徒士(倅代まで二人扶持二石)となります。

さらに栄達は続きます。

文化7年(1810年)には永々御徒士(三人扶持三石)となります。

文化8年(1811年)永々俵取に。偉くはないですが立派な士分となりました。

 

しかし、残念ながらその時がやってきました。

文化8年10月、「御尋の品」で差し控えとなります。

なんのことでしょう?

酒井雅代『朝鮮信使易地聘礼交渉の頓挫と再開』(nikkan0000800010.pdf (hit-u.ac.jp))によると、人参や熊胆の潜商を行っていたことなどが原因で取り調べを受ける身となります。調子に乗ってしまったのでしょうか・・・。

悪いことは続きます。

文化10年(1813年)取り調べ中に病気となり、10月に入牢・士官召放となり完全に失脚して歴史の表舞台から姿を消します。

 

さて、この久光市次郎ですが、何者でしょうか?

現在の対馬に久光氏は居ないこと、朝鮮貿易で語学力を身に着けた町人を通詞に用いていたことを考えると、田代領(現佐賀県鳥栖市)の久光氏と関係があるのではないでしょうか。田代領の久光氏のなかには「うちの家系図に市次郎さんって人がいる」という方がいるやもしれません。

失脚してしまっているので、史料がこれ以上は無いかもですが、家紋や由緒書きなどがあれば、どこの久光氏から身を興したのか分かるかもしれませんね。

 

この久光市次郎について調べていたところ、さらに衝撃的なことに、対馬藩の「奉公帳」(他藩でいう分限帳・長崎県対馬歴史研究センター所蔵)には、久光市次郎を含めて5名の久光姓の者が見受けられるそうです(市兵衛、市蔵、梁左衛門、市次郎、善治)。全員田代領出身なのか、はたまた全く違う系統なのか気になります。

早く新型コロナ感染症が終息して対馬歴史研究センターまで閲覧にいきたいものです。

豊後国 久光氏

こちらの『「久光」という地名2』で、大分にも久光という地名があったことをご紹介しました。

kadoyasan.hatenablog.jp

本当に久光姓は居ないのだろうかと調べてみたところ・・・やはり居ました!

別府大学のサイトのようですが、掲載記事に「久光主計入道」とあります。

http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc10805.pdf?file_id=6503

芥川龍男『「豊後国諸侍着到」の復原と伝存事情』)

この論文で紹介されている着到帳は、高麗陣、いわゆる朝鮮出兵の際に大友勢として参加した侍たちの着到帳のようです。

大友直参に久光姓の方がいたことは、これまでの予想にないことでしたので驚きです。

このことをきっかけに、『大分縣史料(34)第二部補遺(6)』(大分県教育委員会編,1981)を見てみたところ、久光主計のほかにも数人の久光姓の方が。

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「中庵発山口、経尼崎赴洛、而到常陸国水戸佐竹議宣領地、有従士著到此着到亦、有増減」とタイトルが打たれた文書にありました。

事情は分かりませんが、中庵つまり大友義統(吉統)が常陸の佐竹領へ行くときに従っていった方たちの名前が書いてあるようです。

久光主計入道(紹有)は、尼崎まで従って堺に残ったようです。

 

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こちら久光三郎(統利)は、「以御供下向衆」として書かれていましたので、ひょっとしたら久光主計入道のように途中で待機せずに、常陸までついていったのかもしれません。

 

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こちらは「於朝鮮國戦死併病死」と書かれた文書にありました。

朝鮮出兵のとき、久光半三郎さんは亡くなってしまったようですね。

現地に埋葬されたのでしょうか。

 

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こちらはいつ作成されたものか不明ですが、「大友氏家臣交名」のなかに久光紹宇の名前があります。紹の字が共通ですので、久光主計入道紹有と親子関係がありそうです。

 

久光主計入道紹有といい、久光三郎統利といい、その名に「紹」や「統」が入っており、主家である大友家や重臣高橋家などとの関係が見え隠れします。

はたして中世別府の久光名発祥なのかどうかも含めて、今後も調査が必要です。

 

さて、このようにみてきた久光一族ですが、大友氏の豊後徐国後はどこに行ったのでしょうか?

仮説1 大分で帰農した。現在久光姓があまり居ないので可能性低い?

仮説2 大友氏に従った。

       ※関ヶ原後に大友義乗異母弟松野正照に従い肥後加藤家へ行った者、

        高家となった大友家に従った者がいる可能性。

 

案外、江戸時代から代々関東に住んでいるという久光姓の方も、戦国時代には九州にいたという方が結構いらっしゃるかもしれませんね。 

角屋 久光商店4

屋久光商店。経営者の久光伊之助ですが、実は別会社にも関わっていたことが分かりました。

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官報 第3717号 大正14年1月15日

大正時代の官報の商業登記欄に「株式会社鳥栖新市場」の監査役として重任されています。

重任=再選されているわけですから、それ以前から監査役をやっていたわけですね。

 

「株式会社鳥栖新市場」とはどういう会社なのでしょうか。

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鳥栖商工会『鳥栖商工案内』,1925

営業科目が魚介、野菜、果物とあります。

これは推測になりますが、地元の商店主たちが結成した会社で、今でいうスーパーマーケットのようなものではないかと思っています。

野菜コーナーには野菜が、果物コーナーには果物が・・・という感じでしょうか。

当然ながらこの会社では地元商店主でそれぞれ役員等に就いていたと推察されます。

ということは、逆から見ると、役に就いていたということは、曾祖父はこの株式会社鳥栖新市場でも牛乳を販売していたのかもしれません。

所在地など詳しいことは継続調査中です。

単に自宅と国鉄駅構内で牛乳を売っていたというだけでない、曾祖父の人生の別な側面を見つけることができるかもしれません。

期待をもって調査したいと思います。

田代領の久光氏

これまで各地の久光氏について述べてきましたが、断然気になるのは自家と繋がるであろう田代領の久光氏です。

いままで様々な資料を収集し、田代領の久光氏のデータを集めてきました。

以下に示すものはそれら公開されている資料をまとめたものになります。

 

 

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「田代領の久光氏」

※一般に公開されており誰でも見ることが出来る石造物の刻銘は載せています。
※一般的に公開する前提ではない墓碑などのデータは載せていません。
※ご存命の方が居る可能性がある昭和時代の資料のデータは載せていません。

 

現在ではわずかになってしまいましたが、戦前までは田代地区にたくさんの久光家があったことが分かります。

「※」にも書いてますが全部を掲載しているわけではないため、実際には表よりもっと多くの久光氏がおられます。

 

これだけ名前があるのに、同族関係がさっぱり分からないという不思議な久光一族。

かつてお話を聞いた昭和一桁生まれの方ですら、「どこそこが本家」などという同族関係は聞いたことが無いとおっしゃっていました。

 

これらの家々は、おそらく江戸時代のあいだに分家を繰り返したものと考えられます。

かくいう我が家も、どこかの久光氏から分かれたと思われます。

先祖調べのセオリー「上からと下から」のとおり永吉南村庄屋家を総株家と仮定して関連する史料を探しているのですが、元禄から寛政にかけての約100年の空白期間を埋める史料に出会えていません。

 

くじけそうなところですが、前向きに考えると「たった100年、世代換算で3~4世代」を判明させることができ永吉南村庄屋家に繋がる(または繋がらない)ことが確定すれば、それはひとつの到達点と言えそうです。

もし、田代領久光氏の系図や同族関係を示す資料を所持している、所在を知っているという方がおられましたら是非ご連絡いただきたいところです。ぜひご一報ください。

「久光」という地名3

前回まで角川日本地名大辞典に収録されている久光という地名について考えてみました。

当然かもしれませんが、この大辞典にもすべての地名は収録されていないようです。

 

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現在の広島県三次市には、かつて久光城というお城があったようです。

また、近くには久光谷という地名も見えます。

久光城というくらいなので、城主は久光氏なのかと期待しますが、

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残念ながら、三吉氏家臣近実氏が城主とのことでした。

ですが、こういう大辞典にも収録されないような、現在では忘れられつつある地名から興った久光氏が居てもおかしくないのではないでしょうか。

 

実際に、『毛利氏八箇国御時代分限帳』を開くと、

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『毛利氏八箇国御時代分限帳』

久光四郎左衛門という侍の名前が見られます。

岩見国の美濃という地名に5.4石をもらっていたようです。

岩見国と安芸国では距離がありますが、どちらも毛利氏の領地ですから久光城・久光谷出身で久光を名乗った可能性もゼロでは無いのではと思っています。

毛利氏は後年領地を大幅に減らしますので、残念ながらその後の分限帳に久光氏は居ないようです。

 

ですが、こちらの記事で紹介した久光佐渡氏。

kadoyasan.hatenablog.jp

もとは周防国出身で毛利家中だったと書かれていました。

城主クラスに久光氏は見られませんが、案外中国地方には多くの久光氏がいたのかもしれません。

現在山口県に多く存在する久光氏の中には、もとは毛利家臣と伝わっている家があるのではと予想しています。

いつかお話をおうかがいしてみたいですね。