薬屋の末裔2
前回の続き。
久光利平の残した資料が博物館等に残っています。それらによると、佐賀県神埼や長崎県方面に行商に行っていたようです。
写真はありませんが、長崎には得意先が500軒(!)もあったそうです。
それだけお抱えの得意先があったなら、薬袋などが残っていないものか、骨董市・蚤の市があるたびに覗いているのですが、まだ発見には至っていません。
2年間しか営業していないので発見は難しいかもしれませんが、諦めずに探し続けてまいります。
さて、久光利平には現在確認できているだけで3人の息子がいました。
確認できているだけ、というのは取得できる最古の戸籍(明治19年式)には既に長男しか残っていないからです。
久光利平の息子たちは、長男・久光茂平(高祖父)、二男・久光時次、三男・久光茂作の3人です。
三男の久光茂作さんは若くしてお亡くなりになったらしく墓石等で名前だけが確認できます。
二男の久光時次さんはお墓等に名前がなく、おそらく他家に養子に出たか、分家したものと思われます。子孫の方は分かりません。
高祖父である久光茂平も父とともに売薬行商をしていたらしく、営業報告が残っています。
長崎縣下市町五島町
平野屋おみきどの宅江
私儀今日ヨリ日数五拾日斗り
右場所売薬商行仕候間
御届ケ申上置候也
第十年廿六日 久光茂平
「おみきどの」が何者か気になりますが、まあ、平野屋という旅籠に泊まって営業していたのでしょう。
文意の取り方が難しいのですが、長崎県下の市や町(の営業)を五島町の平野屋に泊まって行う、と解釈したのですがどうでしょう。
もし、現在の長崎市五島町と、この文書の五島町が同一のものでしたら、五島町にあったと思われる平野屋という旅籠を探したいところです。
ただ爆心地が近いため資料がないかもしれません。
せめて「平野屋おみき」殿のご子孫がいらっしゃるといいのですが。