ご先祖様の足跡を求めて

ご先祖様の記録を追うとともに全国に点在する同姓の発祥を考えます

永吉南村庄屋

肥前国で帰農した久光氏の話です。
松尾禎作「郷土田代を語る」によると、基肄郡永吉南村では初代から4代目までの
庄屋を久光氏が勤めています。

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松尾禎作『郷土田代を語る』私家版,1938

初代 久光文右エ門(別の資料では「又右衛門」)
二代 久光源右エ門
三代 久光惣右エ門
四代 久光又右エ門のち惣右エ門と改名

しかし、四代目久光惣右エ門のとき、元禄16年(1703年)に対馬藩田代領で大事件が起きます。


借銀帳訴訟、畠ケ田之詮議、七月十日に相済。大庄屋三人役儀被召放、棟梁三郎右衛城戸村へ流罪、八郎右衛門畠ケ田之罪柚比村へ流罪小庄屋永吉南村久光惣右衛門、蔵上村権藤四郎兵衛、宿村青木甚右衛門、藤木村長谷仁左衛門、同西村原孫市、真木村高野治兵衛、役儀召放。養父郡下代吉田益右衛門被召放、御暇申候而筑前へ立越ス。宿村百姓森利左衛門飯田村へ、牢人青木甚右衛門は牢人先ニ而閉門、七月騒動ト云。右科人之内、七郎兵衛、三郎右衛門は借銀帳訴訟、残九人は畠ケ田之訳、此内利左衛門ハ牢人迄、残ハ身体破滅ス。右ニ付、大庄屋は最前之仮役三人給。
(出典:基肄養父御領中略記)

 

借銀帳訴訟、畠ケ田之訳、という理由で大庄屋3人、小庄屋9人が処罰されたようです。
具体的にどんな犯罪だったのか分かりませんが、隠し田でもあったのかと思っています。

さて、この処罰されたメンバーのなかに、残念ながら四代目久光惣右衛門がいます。
庄屋として役儀召放。つまり庄屋をクビになっています。
さらに読み進めると「身体破滅ス」と恐ろしい言葉が続いています。


地侍として地元の有力者であり、江戸時代になって庄屋になったと思われる久光氏。
きっと豪農だったのでしょうけれど、この事件で全財産を失ったようです。

現在、佐賀県鳥栖市に古くからある久光氏はみな町方にあり、農村にはみられません。
おそらくこの元禄16年の事件で田畑を全て失ったため町方に移住し、町人として再出発をしたためではないかと思います。

もちろん「身体破滅ス」とは言え、無一文では移住もできませんし、そもそも食べていけませんから、庄屋時代の縁戚関係からの援助があったものと思われます。

苦しいときに久光一族を援助してくださった方々に感謝です。