ご先祖様の足跡を求めて

ご先祖様の記録を追うとともに全国に点在する同姓の発祥を考えます

筑後国 久光氏

前回は肥前国で帰農し永吉南村庄屋を務めていた久光氏について書きました。

今回の話題は肥前国のすぐ東隣にある筑後国の久光氏。

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九州の旧国地図(『白地図専門店』https://www.freemap.jp/より)

まず位置関係について。肥前国の東端が現在の佐賀県鳥栖市付近です。

永吉南村庄屋の久光氏が居たのはそのあたりになります。

その肥前国のすぐ東側に筑後国があります。

これら両国の国境地域は、天正14年島津氏に侵攻されるまで筑紫氏の勢力圏だった場所です。

今回は、筑後国の西端、現在の福岡県小郡市付近に見られる久光氏について書きます。

 

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田中一郎「近世小郡町の開基と人々の生活」『故郷の花』第14号,33ページ

最初に結論から言うと、肥前国の久光氏と筑後国の久光氏は同族であると考えられます。

小郡市郷土史研究会誌「故郷の花」のなかで、島津氏の筑後侵攻に関して田中一郎氏は「この戦により筑後にあった城郭・神社・仏閣・村々は焼き払われ、無人の荒野となった」と表現されています。

そして、「この無人で肥沃な高生産地帯に全く新たな武士団や農民が強制的に又は縁故を頼って移住してきた」と書いています。

その移住して来た家というのが、写真にあるように久光家であり田中家であり池内家その他であると述べられています。

 

久光家の部分に注目すると、「筑紫一族 天正十五年頃」とあります。

天正15年は、島津氏が筑後に侵攻してきた翌年で、豊臣秀吉により九州が平定された頃。

まさに筑紫氏が代々の領地を失った時代です。

主家筑紫氏の没落によって帰農した久光一族の中から、前回紹介した永吉南村庄屋・久光氏のように肥前国で帰農した一団と、筑後国へ移住した一団があったことが推察されます。

江戸時代には、筑後肥前は異なる大名が支配していました。

その約260年間で両国の久光氏の交流は途絶えたものと思います。

現在でも福岡県と佐賀県とに分かれているため全く別の集団に見えますが、以上のようなことから約430年前は同族だったのだろうと思われます。

 

気になるところは、田中家や池内家はそれぞれ龍造寺に属す、加藤家に属すと書かれているのに、久光家だけ筑紫一族。「筑紫一族」とは何でしょうか?

最初に思い浮かぶのは、筑紫氏の一門衆なのか?ということです。

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福川一徳『九州史料落穂集(秀村選三編)第七冊筑紫文書』文献出版,1990

 「城数之覚」には久光氏の名前はありません。一門衆だったらお城のひとつくらい任されてて良さそうなものです。

この「筑紫一族」というのは、筑紫氏の支配を支えてきた地侍という意味で一族(一党)なのかと勝手に推測していますが、どうでしょうか。

「故郷の花」の出典である「久光家家譜」の現物を確認したいのですが、未だ所有者に辿りつけていません。