ご先祖様の足跡を求めて

ご先祖様の記録を追うとともに全国に点在する同姓の発祥を考えます

角屋 久光商店2

前回の続き。
明治時代から鳥栖駅で牛乳を販売していた曾祖父。
当時の牛乳瓶が残っていないか探してみました。
割れ物だけに難しいかな・・・と思いましたが、残っていました!

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「トス驛」のエンボスがある牛乳瓶

現代の牛乳瓶に比べてガラスが薄く、よくぞ割れずに残っていたものです。
内容量は一合五勺(約270ml)。今の200mlの牛乳瓶より多いんですね。
色は透明で、飲み口が現代のものに比べて細くジュース瓶のような形状です。

 

牛乳瓶の変遷を調べてみると、明治初期はブリキ缶を担いで量り売りしていたようです。腐らないのか心配になります。
その後、明治22年に牛乳搾取規則が制定されガラス瓶に入れて販売することが義務付けられました。やっぱり不衛生だったんですね。

ちなみに、当初の牛乳瓶は有色瓶が使われることも多く、青や緑の牛乳瓶もあったそうです。


時は流れ、やがて昭和3年。透明瓶の使用が義務付けられました。
とは言え、昭和10年代になると物資の不足から、実際には有色瓶が再び使用されていたようです。

さて、今回の牛乳瓶。
透明で細口です。この形状から推察すると昭和3年から昭和10年ごろに使われていたものでは無いかと思われます。
少なくとも物資不足により有色瓶の使用を強いられた時代よりは前だと思われます。

この時代に鳥栖駅構内で牛乳を販売していたのは、角屋久光商店だけですから、写真の牛乳瓶は御先祖様が販売した瓶だと考えられます。


そう思いながら眺めてみると、ただの牛乳瓶にも懐かしさのような親しみを感じてきます。