肥前国 久光氏2
前回紹介した久光善内。
主家の筑紫広門は、島津の猛攻にあって防戦の甲斐なく落城します。
落城後の筑紫広門は、筑後国の大善寺に囚われの身となっていましたが、秀吉が九州に到着したことを知ると脱出し、旧臣を集めて秀吉のもとに参陣します。
島津氏に奪われた五箇山城を回復、その功績により筑後上妻郡18000石を与えられます。
代々治めた肥前の領地は失ったものの大名として生き残ることができたのですが、関ヶ原の戦いでは残念な結果に終わっています。
九州の小大名だから仕方なかったのでしょうけれど、西軍について戦後は改易。
もはやここまで・・・と思いきや、筑紫氏は血筋の良さ故か、はたまた強運なのか、まだまだ滅びません。
加藤主計頭清正に庇護されることになります。
このとき、筑紫氏の旧臣も捨扶持を与えられ、まとめて加藤氏のお世話になることになりました。
さて、久光善内。このとき主家に従い肥後国の加藤家に身を寄せます。
現在、佐賀県鳥栖市に散見される久光姓の方々は、筑紫氏とともに肥後へ行かなかった久光一族の子孫と考えられ、もとは久光善内と同族だったと思われます。
この記事で久光製薬の創業者様と戦国まで遡れば、もしかしたら同族かもしれない、と触れたのは、このような理由からでした。
400年以上前には親戚でともに島津氏の猛攻に耐えて戦っていたのかもしれない・・と過去に思いを馳せることも、ご先祖様を調べる楽しみでもあります。
記録が無いため、あくまで浪漫ですけれど。