肥前国 久光氏3
加藤清正の庇護のもと、筑紫氏も旧臣もひとまず安泰と思ったのもつかの間。
加藤家は二代目でまさかの改易となります。
加藤家のあとには細川家が肥後の国主として入府します。
筑紫広門は細川氏のもとでも庇護されていたようですが、旧臣たちはどうでしょう?
実は、筑紫旧臣がどうなったのかはっきりと分かる資料は残っていないようです。
そこで、分かる範囲で調べてみましたが、ややこしいです。
実は細川家にも久光を名乗る家臣がいたのです。
久光善太氏です。筑紫家臣の久光善内とそっくりな名前で混乱しそうです。
高祖父荒瀬角兵衛は久光佐渡の二男で慶長17年に細川家に召し抱えられたとのことです。つまり、筑紫家臣の久光善内とは全く別系統。
しかも、禄高100石とれっきとした士分であります。
そして明治維新後。
やはりれっきとした士族。善内の子孫ではありそうも無いです。
しかし、次のページに
禄高8俵。これは玄米2石8斗と書かれています。失礼ながら士族と言えるのか疑問に思ってしまうほどたいへんな微禄です。なぜこんな禄高なのだろうと思うと、長岡与三郎という侍の家臣、つまり細川家からみたら陪臣だったようです。
ここで、ひとつ思うことがあります。
かつて、筑紫氏旧臣として捨扶持で加藤家に召し抱えられていた久光善内。
国主が細川家に変わった際にその子孫が微禄かつ陪臣であっても、侍のままでいたとしたら。
この久光正喜が久光善内の子孫の可能性もあり得るのではないかと考えています。
そもそも主家筑紫氏に最後まで従うということは、肥前国久光氏の総本家だったのかもしれません。簡単に帰農できず最後までついていく理由があったとしたら・・・。
ぜひ久光正喜氏の子孫の方に古文書や伝承が無いか尋ねてみたいと願ってやみません。
肥前国 久光氏2
前回紹介した久光善内。
主家の筑紫広門は、島津の猛攻にあって防戦の甲斐なく落城します。
落城後の筑紫広門は、筑後国の大善寺に囚われの身となっていましたが、秀吉が九州に到着したことを知ると脱出し、旧臣を集めて秀吉のもとに参陣します。
島津氏に奪われた五箇山城を回復、その功績により筑後上妻郡18000石を与えられます。
代々治めた肥前の領地は失ったものの大名として生き残ることができたのですが、関ヶ原の戦いでは残念な結果に終わっています。
九州の小大名だから仕方なかったのでしょうけれど、西軍について戦後は改易。
もはやここまで・・・と思いきや、筑紫氏は血筋の良さ故か、はたまた強運なのか、まだまだ滅びません。
加藤主計頭清正に庇護されることになります。
このとき、筑紫氏の旧臣も捨扶持を与えられ、まとめて加藤氏のお世話になることになりました。
さて、久光善内。このとき主家に従い肥後国の加藤家に身を寄せます。
現在、佐賀県鳥栖市に散見される久光姓の方々は、筑紫氏とともに肥後へ行かなかった久光一族の子孫と考えられ、もとは久光善内と同族だったと思われます。
この記事で久光製薬の創業者様と戦国まで遡れば、もしかしたら同族かもしれない、と触れたのは、このような理由からでした。
400年以上前には親戚でともに島津氏の猛攻に耐えて戦っていたのかもしれない・・と過去に思いを馳せることも、ご先祖様を調べる楽しみでもあります。
記録が無いため、あくまで浪漫ですけれど。
肥前国 久光氏
これらの方々にお尋ねしたところ、複数の方から「(戦国大名)筑紫氏の家来だったけれど、島津氏の侵攻によって筑紫氏が滅んだので武士を辞めたらしい」という趣旨のお話をお聞きしました。
鳥栖市報のバックナンバーをチェックしていたところ、この”伝承”に関係する興味深い記事を見つけました。
市報上で連載されている記事で、記録に残る筑紫氏の家来が紹介されています。
この中に「久光善内」という方の名前がみえます。
思いがけず同姓の方から聞かせていただいた「筑紫氏の家来だったらしい」という話が、真実を含んでいるようだと判明しました。
新たな筑紫家文書が世に出てくることを願います。
何か少しでも手掛かりが欲しいところです。
全国の久光姓の分布
久光という名字の分布には偏りがみられます。
人数の多い地域を大雑把にグループ分けしてみると
(1)宮城県グループ
宮城県には久光満重という武将がいたそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/久光満重
葛西氏、伊達氏の家臣として残っていることから、この一族によるグループではないかと思っています。
(2)北海道グループ
ご存知のとおり北海道は明治以降の移民で成立しています。
ですので、北海道にたくさん久光姓がいらっしゃる理由というのは一概には言えませんが、地理的には宮城県グループとの関係、そして北海道開拓に来た色々な系統が混在していると思われます。
これらは果たしてひとまとめのグループなのでしょうか?
地域は連続しているようにも見えますが、個人的には備後・安芸グループ、周防・長門・豊前グループ、筑前・筑後・肥前グループに分かれているのではないかなと感じています。
戦国大名の支配地域の関係からそう感じたのですが、果たして同族なのか?たまたま同姓なのか?これらをぜひとも明らかにしたいところです。
もしも同族なら本貫地を確定させたいですし、別系統ならそれぞれの由緒を知りたいものです。
利平二男・時次氏
以前も少し書きましたが、久光利平には二男・時次という息子がいました。
万延元年(1860年)4月7日生まれ、明治14年に二十歳を迎え徴兵される年齢になりました。
「明治十四年徴集諸名簿」によると、失踪ニテ身体下検査未済之部にその名前があります。
その後、無事(?)徴兵されたのかどうか定かではありませんが、徴兵が嫌だったご本人の心境、失踪されて恥ずかしかっただろう戸主たち家族のことなど、何も伝わってなくて残念です。
さて。明治14年に二十歳。
明治19年式戸籍が編製されたと思われる明治20年代前半には、二十代後半です。
既に19年式戸籍にその名は無く、またお墓も無いためおそらく養子に行ったと思われます。
養子先の子孫の方が先祖を調べていて、いつの日かご先祖様のご縁で出会うという奇跡が起きたら面白いのに、と夢想する日々です。
薬屋の末裔2
前回の続き。
久光利平の残した資料が博物館等に残っています。それらによると、佐賀県神埼や長崎県方面に行商に行っていたようです。
写真はありませんが、長崎には得意先が500軒(!)もあったそうです。
それだけお抱えの得意先があったなら、薬袋などが残っていないものか、骨董市・蚤の市があるたびに覗いているのですが、まだ発見には至っていません。
2年間しか営業していないので発見は難しいかもしれませんが、諦めずに探し続けてまいります。
さて、久光利平には現在確認できているだけで3人の息子がいました。
確認できているだけ、というのは取得できる最古の戸籍(明治19年式)には既に長男しか残っていないからです。
久光利平の息子たちは、長男・久光茂平(高祖父)、二男・久光時次、三男・久光茂作の3人です。
三男の久光茂作さんは若くしてお亡くなりになったらしく墓石等で名前だけが確認できます。
二男の久光時次さんはお墓等に名前がなく、おそらく他家に養子に出たか、分家したものと思われます。子孫の方は分かりません。
高祖父である久光茂平も父とともに売薬行商をしていたらしく、営業報告が残っています。
長崎縣下市町五島町
平野屋おみきどの宅江
私儀今日ヨリ日数五拾日斗り
右場所売薬商行仕候間
御届ケ申上置候也
第十年廿六日 久光茂平
「おみきどの」が何者か気になりますが、まあ、平野屋という旅籠に泊まって営業していたのでしょう。
文意の取り方が難しいのですが、長崎県下の市や町(の営業)を五島町の平野屋に泊まって行う、と解釈したのですがどうでしょう。
もし、現在の長崎市五島町と、この文書の五島町が同一のものでしたら、五島町にあったと思われる平野屋という旅籠を探したいところです。
ただ爆心地が近いため資料がないかもしれません。
せめて「平野屋おみき」殿のご子孫がいらっしゃるといいのですが。
薬屋の末裔
「ヒサミツ」と聞いて何を思い出すでしょうか?
大多数の方がサロンパスで御馴染みの久光製薬さんを思い出し、幕末ファンは島津の国父様を思い出すのではないでしょうか。
前者は同じ対州藩田代領内の同姓なのですが、我が家で判明している18世紀後半のご先祖様まで遡っても繋がっている気配はありません。
戦国時代まで戻ると元は同族かもという仮説はあるのですが、その話はまた後日。
さて、下の写真にある久光利平は私の五代前のご先祖様です。
明治8年に売薬検査願を出した人々の中にその名がありました。
日本三大売薬のひとつとも言われる「田代売薬」。
幕末維新期を生きたご先祖様も携わっていたというのは感慨深いものがあります。
・・・ですが、この久光利平氏は明治10年6月18日に売薬廃業届を県庁に提出しています。わずか2年。西南戦争の頃であり政府は資金調達に苦しんでいた時期。いろいろと読んでいると売薬にも税負担がかなりかかっていたようで、多くの人が廃業されているようです。
ちなみに、どういう薬を売っていたのでしょうか?売薬廃業届に名前が列挙されています。
写真を載せたいところですが、売薬廃業届を所蔵している施設の許可がいるので、ざっと名前だけ書き上げて列挙しますと・・・
奇應丸、キナ圓、一角丸、熊謄丸、万金丹、清壽丸、赤龍丸、肝凉圓、功勝円、安栄湯、正気湯、山田振藥、大補湯、疝気一服湯、千金丹、合羽膏 以上16処方。
どのお薬がどういうときにどう効くのか分かりませんが、試してみたかった気がします。さすがに調合方法は見つかっていません。