「久光」という地名2
前回少し触れましたが、『角川日本地名大辞典』という書籍があります。
県別に発行されており大辞典の名に恥じぬ網羅ぶりです。
さて、このシリーズには『角川日本地名大辞典 別巻2 日本地名総覧』という本があります。総索引のような本です。
この本で「久光」という地名を調べてみました。
ほとんど現在の久光氏の分布と一致しません!
久光氏が多くみられるのは
1 宮城県
2 北海道
3 山口県
4 福岡県
5 広島県
6 佐賀県
7 高知県
・・・というところです。
宮城県などは、最大人数を誇りながら、久光という地名がありません。
宮城県在住の久光様方へ苗字の由来をお聞きしたいところです。
また、京都や大分、鹿児島には久光という地名があったにも関わらず久光氏が滅多にいません。
京都・大分・鹿児島の久光名(保)をもとに久光を名乗った一族もきっと居たに違いないと思うのですが、長い歴史のなかで滅んでいったのでしょうか・・・。
あるいは戦乱のなかで一族をあげて移住した結果が、現在のような久光氏の分布になったのかもしれません。
西日本の久光氏は、これらの地名が由来である可能性は大いにあると思われます。
言い伝えが残っておられる久光氏がおられたら是非お聞かせいただきたいです。
「苗字の多くは地名由来です」と言われても、その地を特定するのは容易なことではありませんね。
「久光」という地名
苗字の由来の多くは地名によるものと言われています。
では、久光という苗字のもととなるような地名は、どこにあったのでしょうか。
太田亮氏の『姓氏家系大辞典』には、
「久光 ヒサミツ 筑前国那珂郡久光邑より起りしなるべし。」と書かれています。
この場所は、現在の筑前町久光(旧三輪町大字久光)に比定されています。
佐賀県鳥栖市や福岡県小郡市そしてその周辺に見られる久光氏は、この地名から興った久光氏の末裔であろうと言われると何となく納得できそうです。
久光邑から興った一族が、西へ移動して鳥栖市周辺まで来た。
そして、筑紫氏の支配下の地侍になり、故郷の地名を取って久光を名乗った・・・というストーリーです。
史料は無いものの、物理的な距離など状況を見るとそれなりに説得力のある仮説だと思います。
ただし、100%とは言えません。気になる点もあります。
・気になる点1つめ。
地名由来の苗字である(と思われる)のに、筑前町久光には現在久光氏が全然居ま
せん。
・気になる点2つめ。
その地名を名乗る地侍ならば、秋月氏の家臣にも久光氏がいてよさそうですが、
秋月家臣に久光氏が居た気配は感じられません(私が知らないだけかも)。
・気になる点3つめ。
『角川日本地名大辞典(40福岡県)』では
「久光村 江戸期~明治22年の村名。筑前国夜須郡のうち。黒田長政の入国のの
ち、栗田村から分村して成立。はじめ福岡藩領、元和9年から秋月藩領。(以下
略)」
と書いてあります。
戦国時代から久光を名乗っていたのに、久光村の成立が江戸時代とされています。
太田亮さんのおっしゃるとおり久光邑発祥、そして事情があって西に移動してきたという仮説でたぶん間違いないと思っていますが、今後の調査では、これらのひっかかる点を忘れずに大切にしたいです。
余談ながら、秋月氏は江戸時代に日向高鍋(宮崎)へ転封になり幕末まで続いています。電話帳サイトで調べると、宮崎にも数名の久光氏がおられます。
とても気になっています。
筑前国 久光氏2
前回と同じ筑前国でも、今回はお侍の話です。
福岡藩の分限帳は73点が確認されているそうですが、活字になって世に出ているのは25点分だけ、わずか1/3しか知られていません。
その活字になった分限帳を見ていますと、
久光彦六さんと言う方がおられます。
右肩に元万代琢磨と書かれており、氏名が変わったことが分かります。
万代家と久光家との詳細な関係は分かりませんが、両家の関係性はこれだけではありません。
福岡の変を指揮したひとりに久光忍太郎という方がいます。
『明治丁丑 福岡表警聞懐旧談』(清漣野生 ,1973)によると、
とあります。
実は、この久光忍太郎。出身は万代家なのです。
『西南記伝 下巻2』(黒龍会,1911)によると、万代彦右衛門の第三子。
万代家を継いだ長兄・万代十兵衛は禄高100石のれっきとした侍。
しかしながらこの万代十兵衛は、乙丑の獄で切腹になってしまいます。
その兄の後を継いだのが、三男・忍太郎でした(次男は江上家に養子に出ています)。
不思議なのですが、家を継いだ際に姓を久光と改め、ここに久光忍太郎となりました。
最初に紹介した久光彦六も、元は万代琢磨でした。
また、万代彦右衛門と久光彦六という名前。
偶然かもしれませんが「彦」にこだわっている感じがありますね。
それにしても、どうして万代から久光になる人がこうもいるのでしょうか?
万代家にしても久光家にしても、黒田家に仕える侍である以上、家を絶やさずにつなげていくことも大切な奉公です。
そう考えると、両家の間には何らかの強い関係があったとしか思えません。
お互いに家が絶えないよう協力し合っていたのでしょうか。
分限帳・久光彦六のところには長政の代からとあります。
長政に最初に召し抱えられた久光氏がどういう謂れだったのか、ぜひとも知りたいものです(いちばん気になるのは、もちろん筑紫家臣の久光氏との関係性の有無ですが)。
そして、万代家と久光家の関係も明らかにしていきたいです。
筑前国 久光氏
以前、肥前国(鳥栖)と筑後国(小郡)の久光氏について書きました。
今回は筑前国(筑紫野)の久光氏のお話です。
まずは位置関係。
そして、これら両国の北にあるのが筑前国。
三国が接しているので三国境と呼ばれ、いまも国境石が残されています。
その筑前国。原田村にも久光氏がいました。
これら三国境の地域はもともと筑紫氏の支配地域でしたから、久光氏が居てもおかしくない気がします。
筑後国久光氏の記事で書きましたように、天正14年の島津氏侵攻によって肥前と筑後で帰農したと思われる久光氏。
ですが、原田村に関しては、戦国末期ではなく江戸時代に移り住んできた可能性が高いようです。
原田村に埋葬された記録が残っている最古の久光氏は、1783年に亡くなっています。
134年間で埋葬者数24人。
1世代を30年前後と考えると134年は4~5世代。
1世代の1家族=5~6人程度と考えると、だいたい計算が合います。
つまり、この久光氏は複数の家ではなく、1つの家である可能性が高いのではと思われます。
以前紹介した下の記事。
永吉南村庄屋の久光氏が失脚したのが元禄16年=1703年です。
原田村で最初に久光氏の埋葬が記録されたのが1783年。
永吉南村庄屋久光氏の失脚の80年後です。
いくつで亡くなったか分かりませんので何とも言えない部分はありますけれど、亡くなったのが1783年なら移住してきたのは、その30~50年くらい前でしょうか?
1733~1753年頃にどこからともなく原田村にやってきた様子の久光氏。
失脚した永吉南村庄屋久光氏の一族は財産を失い、そのほとんどが田代に移り住んで町人になったと思っていますが、なかには農家としての再起を期して原田村に移り住んできた方もいたのではないかと思いますがどうでしょう?
(もちろん、永吉南村とは無関係で別な所から移住してきた可能性もあります)
ところで、家が絶えたのかそれとも転居されたのか、現在ではこの24名のお墓は無縁仏化しているらしいです。
当主の方に原田村久光氏の由緒を確認し、この仮説の検証が出来ないのが実にもどかしくもあり残念でもあります。
角屋 久光商店3
高祖父・久光茂平が興し、曾祖父・久光伊之助が発展させた角屋久光商店。
どのくらいの稼ぎがあったのでしょうか?
当時の商工録から記録を拾ってみました。
データが少ないですが、大正末から昭和初めが最も稼ぎが良かった時代のようです。
このサイトの「2.給料・賃金」の大正14年を見ると、
勤労者世帯実収入(月)(2人以上勤労)114円
大卒初任給 50円
大工手間賃(1日) 3.5円
日雇い労働者賃金(1日) 2.1円
となっています。
これらの金額は、1円=4500円程度で換算してみると令和のものと近い金額になるようです。
・50円×4500=225,000円 大卒初任給
・2.1円×4500=9,450円 日雇い労働者賃金(1日)
そこで、仮に1円=4500円の価値とすると、
昭和三年・77円=令和二年・346,500円くらいの納税額というところでしょうか?
価値の換算は容易ではありませんが、
こうやって推察してみると、「金持ちでは無いが家族で食っていく分には当面困っていない」という生活状況が見えるように感じます。
さて、角屋久光商店の経営状態が上記のような感じであった時代。
それを記念し大正7年に建立された石碑が残っていました。
曾祖父・久光伊之助が寄付した金額は3円。
1円=4500円仮説で換算すると、現代価値で13,500円くらい。
その寄付額が高いのか安いのかは、分かりません。
ただ、石碑に刻まれた名前をひ孫が見つけて大喜びしている姿は、流石の曾祖父も想像だにしなかっただろうことは、容易に分かります。
こういう体験をすると、自分の孫やひ孫へのサプライズとして、石碑建立に寄付をしたい気持ちになってきますね。いつの日か見つけてもらえる願いを秘めて・・。
角屋 久光商店2
前回の続き。
明治時代から鳥栖駅で牛乳を販売していた曾祖父。
当時の牛乳瓶が残っていないか探してみました。
割れ物だけに難しいかな・・・と思いましたが、残っていました!
現代の牛乳瓶に比べてガラスが薄く、よくぞ割れずに残っていたものです。
内容量は一合五勺(約270ml)。今の200mlの牛乳瓶より多いんですね。
色は透明で、飲み口が現代のものに比べて細くジュース瓶のような形状です。
牛乳瓶の変遷を調べてみると、明治初期はブリキ缶を担いで量り売りしていたようです。腐らないのか心配になります。
その後、明治22年に牛乳搾取規則が制定されガラス瓶に入れて販売することが義務付けられました。やっぱり不衛生だったんですね。
ちなみに、当初の牛乳瓶は有色瓶が使われることも多く、青や緑の牛乳瓶もあったそうです。
時は流れ、やがて昭和3年。透明瓶の使用が義務付けられました。
とは言え、昭和10年代になると物資の不足から、実際には有色瓶が再び使用されていたようです。
さて、今回の牛乳瓶。
透明で細口です。この形状から推察すると昭和3年から昭和10年ごろに使われていたものでは無いかと思われます。
少なくとも物資不足により有色瓶の使用を強いられた時代よりは前だと思われます。
この時代に鳥栖駅構内で牛乳を販売していたのは、角屋久光商店だけですから、写真の牛乳瓶は御先祖様が販売した瓶だと考えられます。
そう思いながら眺めてみると、ただの牛乳瓶にも懐かしさのような親しみを感じてきます。
角屋 久光商店
長らく戦国時代の久光氏について記述してきました。
今回は一気に現代に近づき、私の高祖父・曾祖父について書きます。
高祖父・久光茂平 嘉永5年12月24日~明治38年6月10日
曾祖父が営業していた角屋(久光商店)です。
創業は明治30年とありますから、高祖父の時代に創業し、曾祖父が発展させたようです。
高祖父は明治38年に亡くなっていますから、このような記事で高祖父の名前が掲載されたものは発見に至っていません。九州の個人商店に関して明治時代のものはあまり残っておらず、資料を探すのは大変です。
さて、営業内容ですが、「陶器、荒物、牛乳」とあります。
陶器・荒物はともかく、牛乳とは目を引きます。
明治時代の九州といえば、現代とは比べ物にならないほど東京との格差が激しかったと思います。ひとことでいえば”イナカ”だったはずです。
そんな時代に九州で牛乳販売?なんだか唐突な感じを受けます。
一体いつ頃から牛乳を売っていたのか、というのが気になるところですが、
明治44年の「駅勢一覧」には鳥栖駅構内牛乳呼売人として曾祖父の名前がしっかり書かれていました。
どこの時点で始めたのかは判然としませんが、少なくとも明治時代には牛乳を売り始めていたようです。ハイカラな話ですね。
それにしましても、国鉄駅構内で営業を許されていたことは驚きです。
現代のように入札で業者を決める時代ではありません。どうやって入ったのでしょう。
根拠となる資料が無いため仮説と呼べるか分かりませんが、ひとつには地元の有力者・八坂甚八氏との関係が考えられます。
地元では有名な話ですが、いち早く鉄道の有用性に気づき鳥栖に鉄道駅を誘致したことで八坂甚八氏は知られています。
しかも大地主で国会議員も務めた、地元の名士中の名士です。
ここで最初に掲載しました「大日本商工録 公認. 昭和3年版」の取引銀行を改めてみますと、「八坂銀行」となっています。
完全に憶測というか妄想になりますが、、、
・地元に鉄道を引いた八坂氏。
・駅弁に関しては、地元の橋本氏が「八坂+橋本」で”八ツ橋屋”という弁当屋さんを開いて構内営業してもらうことができた(これは本当)。
・あとは、東京の駅には「ミルクスタンド」があるのに、わが地元には無いことを残念に思っている。
・さて、角屋の経営のため八坂銀行に出入りしていた久光氏。たまたま八坂甚八氏の目にとまり「君、駅で牛乳売ってみらんかね?」
・こうして角屋(久光商店)は陶器・荒物に加えて牛乳販売も手掛けることになったのであった。
・・・というストーリーが一番しっくりくる気がしています。憶測とはいえ大外れとも言えないのではないかと思います。
でもなければ、一般庶民の商売人がそう簡単に国鉄構内に営業に入れるとは思えないのです。
この仮説(?)の真偽を確かめるために、九州鉄道構内営業関係や八坂家文書を見つけたいです。ほんの少しでも当時の背景が確認できたら嬉しいです。